LOGIN「あの人の具合はどうでしょう?」
「驚く程順調に回復してますよ、もう大丈夫です」心配そうに尋ねる千鶴に、吉川は笑顔で答えた。
榊商店とは隣り合っているということもあり、あれから頻繁に主人の見舞いに来る千鶴と会話を交わす。
榊の回復力は本当に驚くしかなかった。甲斐甲斐しく主人の面倒を見る千鶴に目をやる。
千鶴は村の女たちと違う。笑うと唇の左が先に動き、人懐こさを感じさせる――村人たちの揃った笑顔にはない、素直な感情がそこにあった。彼女は数年前にこの村へ嫁ぎ、榊商店を夫と二人で切り盛りしてきたと聞く。まだ二十代の終わり。本来なら、都会で華やかに暮らしていてもおかしくない年頃だ。
千鶴の傷は浅く、その日のうちに帰宅できた。
だが榊の方は違った。肋骨の骨折と内出血——吉川の見立てでは半年は安静が必要な重傷のはずだった。ところが患者はみるみる回復していく。二週間で起き上がり、一ヶ月後には退院可能になった。
吉川には理解できなかった。村長に尋ねると、村ではよくあることだという。
「村に伝わる薬がありましてな」
その薬を見せて欲しいと頼んだが、断られた。
「先生がもっと村に馴染んでくれるか、大怪我でもしたらお渡ししますけぇの」
退院の日、夫婦は並んで深々と頭を下げた。
「先生がいなければ……私たちは……」
「わしらは……一生、忘れんけぇ……」二人の声は震えながらも確かな温もりを帯びていた。
吉川は静かに答えた。
「当然のことです。それが仕事ですから」
けれど心の奥では、久しく味わえなかった充実感が灯っていた。
助けられた命。失わずに済んだ家族。 ――そう思った。◆
しかし、それは長くは続かなかった。
一か月後の朝。 千鶴がひとりで診療所を訪れた。顔は青ざめ、目は赤く腫れていた。「……主人が、いなくなったんです」
昨夜までは隣に眠っていた夫が、朝には忽然と消えていたという。布団は乱れたまま、外には足跡すら残っていなかった。
村人たちは口を揃えた。
「山に行ったんじゃろう」「そのうち戻るけぇ」 皆、同じ形の笑顔を浮かべて。だが、榊は帰らなかった。
千鶴は店を一人で切り盛りしながら、夫の帰りを信じて待ち続けた。そして隣に住む医師の世話を、まるで家族のように焼くようになったのだった。
◆
記憶の靄が薄れていく。
吉川は試験管を机に置き、窓の外に視線を向けた。梓の姿はもう見えない。坂道の向こうに消えて、静寂だけが残っている。
東京から来た少女。母を亡くし、一人でこの村にやってきた。自分と同じように。
違うのは、彼女がまだ十七歳だということ。そして、これから起こることを何も知らないということ。
隣から、食器を洗う音が聞こえてくる。千鶴が朝食の後片付けをしているのだろう。いつものように、吉川の分も作って、食べられずに冷めるのを待っているに違いない。
扉を開けて外に出る。榊商店の入り口で、千鶴がエプロンを手で払っていた。
「あ、先生。診察は終わりましたか?」
「ええ。転校生の健康診断でした」
「そうですか。あの子、梓ちゃんでしたっけ。可愛らしい方ですね」
千鶴の笑顔は穏やかだった。いつものように、心配そうでもあり、安心したようでもある、複雑な表情。
「千鶴さん」
「はい?」
吉川は言いかけて、やめた。何を言おうとしていたのか、自分でもよくわからなかった。
「いえ……いつも、ありがとうございます」
「何をおっしゃいます」
千鶴は困ったように首を振る。
「私の方こそ。先生がいらしてくださって……」
言葉を濁す。夫のことを思い出しているのだろう。あの人がいなくなってから、もう三か月になる。
吉川は千鶴の横顔を見つめた。まだ若い。本来なら、夫と一緒に店を切り盛りし、子供を育てて、普通の幸せな生活を送っているはずだった。
それが奪われたのは、村の何かによってなのか。それとも、単なる偶然だったのか。
診療所に戻り、カルテ棚の前に立つ。梓のカルテを新しく作らなければならない。名前を書き、生年月日を記入する。
血液検査の結果は、数日後に判明する。特に何もないとは思うが、何かあったら知らせなくては。
手を動かしながら、そう考えていると、千鶴が声をかけた。「そういえば、梓ちゃん、今年はお祭りの主人公じゃありません?」
いわれてカルテに目を落とすと、確かに。
今年の夏祭りの舞台に上がる年齢だ。「千鶴さん、カルテを盗み見しましたね?」
「……ごめんない、ちょっと目に入ってしまって」小さく舌を出して微笑む千鶴。年齢よりもずっと可愛らしく見える。まぁ、年齢を見てしまうくらい、何の問題もないが。とはいえ問題は問題だ、吉川は千鶴に注意をすると、彼女はしおらしく謝ったのだった。
「しかし……夏祭りですか」
吉川は千鶴の言葉に、去年の一幕を思い出していた。
◆
去年の夏祭りの日、吉川は人混みの後ろから、村の中央広場に設えられた祭壇を見ていた。
さして多くはない、この村中に住民が集まってきている。 笛と太鼓の音が、風にのって漂う。 昼の暑さはもう引き、夕暮れの風が山を撫でている。まるで舞台のような祭壇を見ると、村の子どもたちが広場へ向かっていた。
丁度大人と子供の中間、確かに一六や一七歳になると祭りの主役として儀式を務めることになるらしい五人の少年少女が、笑いながら手を振っている。白い着物に赤い帯。足もとは草履。
みんな誇らしげで、照れくさそうで、それでも嬉しそうだった。村人たちの顔も、今日ばかりは穏やかだった。
若い衆は提灯を持ち、女たちは花で飾った笹竹を立てる。 焚き火の煙と線香の香りが混じり合い、どこか懐かしい匂いがした。その風景を、吉川は好もしく思う。
この村の古めかしさも、迷信めいた信仰も、 こうして笑い声に溶けているうちは、ただの“風習”に過ぎなかった。祭壇には白布がかけられ、竹の杯が五つ並べられている。
その前に村長の清一が立ち、鈴を鳴らして祝詞をあげた。「これより、成人の儀を執り行う。神の恵みに感謝し、清らかなる神酒をもって我らの子らを祝す」
静寂。
火の粉がゆっくりと夜空に昇る。 その中を、清音が一歩進み出た。 白い袖が、ほの暗い焚き火の赤をはね返している。村の女たちが大きな酒杯を清一の前へ運んだ。
中には、どろりとした赤い液体が入っていた。 吉川は医師として、その色を見た瞬間、少し眉をひそめた。 だが、匂いは甘い。果実酒のようでもあり、薬酒のようでもある。清一が酒杯を両手で掲げ、
「神の血」と称して口をつけた。 そのあと、子どもたちがひとりずつ前に進み出て、それぞれの杯を受け取った。その仕草に、吉川は目を細めた。
見覚えのある娘だ。 彼女の中に、神だの巫女だのという言葉で測れない人間のあたたかさがある。最後に少年が杯を受け取った。
月明かりに照らされた横顔は、 どこか覚悟を秘めているように見えた。 唇に触れる赤。 ひとくち飲み、静かに目を閉じた。太鼓が鳴り、笛が重なり、夜が祭りに変わる。
女たちの唄が流れ、子どもたちが火の輪を囲んで踊る。 誰もが笑っていた。 神も、掟も、この瞬間だけは穏やかな祝福のように思えた。◆
「ああ、そうですね、確かにそろそろ夏祭りの季節ですか」
「きっと梓ちゃん、白い着物良く似合うでしょうね」
微笑んで千鶴がいう。
だが、吉川の胸の奥にはなぜか重いものが沈んでいた。梓の瞳に宿っていた硬いもの。あれは何だったのだろう。意志の強さか。それとも、何かへの恐れだったのか。
書き終えた梓のカルテに目をやる。既に名前を書き、生年月日を記入してあったカルテに、今日の診察内容をまとめる。
「さて――」
カルテを棚に整理すると、吉川は何気なく机の引き出しを開けた。
そこには、隅に一枚の名刺が押し込まれていた。数年前、繁華街の飲み屋で彼から受け取ったものだ。職業、名前、住所と電話番号だけが書かれたシンプルな名刺。その軽薄さとは裏腹に、紙の手触りはいつも重さを帯びている。引き出しを閉め、カルテに視線を戻す。
千鶴が淹れてくれたお茶を飲みながら、吉川は考えた。この村に来て半年。最初は静かで平和な場所だと思っていた。村人は親切で、自然は美しく、都市の喧騒から離れて医療に専念できる理想的な環境に見えた。
だが、時々感じる違和感。村人たちの笑顔が、どこか型にはまったように見える瞬間。子供たちの目の奥に宿る、年齢にそぐわない影。
そして、村のしきたり。吉川は窓の外を見た。午後の陽射しが、榊商店の看板を照らしている。千鶴の影が、店の奥で動いているのが見えた。
彼女は夫の帰りを信じて待っている。だが、もし彼が二度と戻らないとしたら。もし、この村に何か恐ろしい秘密が隠されているとしたら。
その時、自分は何ができるだろうか。
医師として。一人の人間として。そして、この村で生きていくよそ者として。胸の奥で、言葉が静かに形を取った。そして、梓の後ろ姿を思い浮かべながら、もう一つの言葉が加わった。
―――守らなければならないものがある。
夕暮れの診療所に、静寂が戻ってきた。だが、その静寂の奥に、何かが蠢いているような気配を、吉川は感じ取っていた。
◆◆◆ あとがき。吉川くんの視点から、村の日常を描きました。
まだ物語は静かに始まったばかりです。 千鶴さんは温かな人柄の女性として書いています。 吉川くんの眼鏡については……資料によって有無が曖昧で、悩みました。 どうか、お付き合いください。吉川は柱から縛めをほどいた俊夫に肩を貸した。 俊夫はよろめきながらも、歩き出す。「せ、先生? なんで? 俺は……?」「安心してください。とりあえず皆で診療所まで戻りましょう」 朦朧としている俊夫に落ち着いた声をかけながら、吉川は歩き出す。「梓さんは、沙織さんたちを」「はい!」 梓は沙織の側に膝をつき、子どもの体温を確かめる。陽一はまだ震えており、小さな背中が母親の胸に寄り添う。「何があったのかは後で伺います。今は、ここを離れることが先です」 梓は囁くように言いながら、沙織に手を差し出した。 沙織は眉を寄せ、嗚咽を抑え込もうとして顔を上げる。恐怖と安堵が混ざった表情で、震える手を梓の指に絡める。「……どうして……どうしてこんなことを……」「今は、とにかく動きましょう。先生の指示に従ってください。私も、手伝います」 沙織を立たせ、梓は陽一を抱き上げた。陽一は身体を小さく丸め、母の胸から離れるのを嫌がった。「おかあさん……」 小さな声が震える。梓がそっと背を支えると、陽一はびくびくと小さな体を預けながら、縛られていた柱の方を見た。「……おとうさん、だいじょうぶ?」 その問いかけに、沙織の顔が歪む。答えを返せずに唇を噛み、震える手を梓の腕に短く触れた。そこに感謝と疲労、そして言葉にできない苦悩が混じった熱を残した。「大丈夫よ、陽一。先生が診てくださるから」 沙織は必死に声を絞り出し、息子の頭を撫でた。 その時――外から、砂利を踏む足音がかすかに聞こえた。風に乗って、松明の匂いが戸の隙間から流れ込む。梓は無意識に立ち止まり、耳を澄ませる。足音は間を置いて近づき、やがて止まる。 吉川の目が一瞬だけ険しくなる。治療の手を止め、梓に短く囁いた。「梓さん、外の様子を見てください。急ぎますが、慎重に」 梓は静かに頷き、障子の隙間に懐中電灯の光を差し出す。外は月光に照らされた小径が細く伸び、一人の男がこちらを覗き込むように近づいてきた。光が当たるその顔は、庄司――村の猟師だった。手には猟銃を抱えている。しわの刻まれた表情は冷たい眼差しを湛えながら、どこか歪んだ微笑を浮かべている。 庄司の声が夜に低く響いた。「ここに入ったのは誰じゃ? 村ん外ん者か?」 そのひとことで、室内の緊張が一段と高まった。男たちの影が戸口に寄り、火の光が差し込
洞窟から戻る道の途中、雑草に紛れているが脇に分岐する小道が見えていた。その先には、古井戸の黒い輪郭がぽっかりと浮かんでいた。月明かりがその縁を銀で縁取るたび、梓は胸の奥を小さく締めつけられるような感覚を覚えた。「この先にある古井戸、少し気になりますね」「……はい、井戸の先にも何かあるみたいです」 清音に言われた言葉が、ふと蘇る。──古井戸には近づくな、と。何かを守るための境界線のように、彼女の中でその言葉が折り重なっていた。「調べてみたくもありますが……」 吉川の声を聞きながら、道の分かれ目を過ぎ、数歩進んだとき――夜の空気が一瞬、ざわついた。井戸の向こうから、切羽詰まった女性の声が鋭く響いた。「助けてっ!」 その叫びが夜気を震わせ、梓の胸が凍る。声は一度で終わらず、嗚咽と短い断末魔のように続いた。懐中電灯の光を握る手に力が入る。清音の言葉が、不意に耳の裏から囁かれた。──古井戸に近づくな、と。梓はその戒めを思い出しながらも、足を止めることはできなかった。 梓は古井戸の方向に目を向けた。吉川も同じく、暗闇の奥を見据えている。「先生、今のは!?」「ええ、聞こえました。あの声には聞き覚えがあります」 二人は迷うことなく、分かれ道に向かって駆け出した。 古井戸を横目に過ぎると、その先の暗い森の中に小さな建物の影が浮かび上がる。黒ずんだ屋根が月光に浮き、社務所の跡を残す廃屋だった。障子の一隙間から、暗がりのなかで揺れる小さな影が見え、かすかな音が漏れている。短く、途切れる嗚咽。子どもの泣き声だった。 梓の足が無意識に速まる。胸の中で、祠の板に刻まれた文字列がまた揺れた。〈この子は、普通に生きて〉――その殴り書きが、眼前の泣き声と重なる。 障子越しに揺れる影がもう一度見え、梓は無意識に駆け寄ろうとする。吉川が静かに後を追い、彼女の肩に軽く触れて速度を抑えた。彼の目は夜の光に冷たく光り、しかし表情には確かな理性があった。「落ち着いてください。様子を伺います」 吉川は低く言い、障子の隙間に懐中電灯を差し入れて中を覗き込む。光が畳に落ちた瞬間、そこに縛り付けられた人体の輪郭が浮かび上がった。男の体は柱に固定され、縄が何重にも巻かれている。筋が浮いた腕が痙攣し、唸り声が口から漏れていた。 吉川が低く囁いた。「梓さん、静かに。まずは状況を確かめな
板を写し終えたときだった。 洞窟の奥から、かすかな息づかいのような音が響いた。湿った闇そのものが呼吸しているようで、二人は同時に顔を上げた。 ――ふう、ふう……。 低く重なる音が、岩壁に反響して胸の奥を震わせる。「……聞こえますか」「はい」 吉川の声は押し殺されていた。 梓は灯りを固く握りしめ、首を縦に振る。甘ったるい匂いが急に濃くなり、喉の奥に粘りつく。 耳を澄ませると、息づかいの合間に囁きが混じっている。 意味を結ばない声が重なり合い、まるで複数の人間が同時に呟いているようだった。 梓は母の日記の最後の一文を思い出した。 ――「もう二度と戻らない」 背筋に冷たいものが走り、視界が滲む。「先生……ここから先は……」 吉川は懐中電灯を奥に向けたが、光は闇に呑まれて何も映さない。彼の理性は告げていた。ここは禁域だ、立ち入ってはならない。だが同時に、医師としての衝動が彼を迷わせた。「確かに……ここは危険な雰囲気があります。しかし、真実はこの先にある」 梓は頭を振った。「だめです……誰かが、見ている……」 その瞬間、背後から空気が揺れた。 暗闇の奥に、確かに何かの視線を感じる。 ――覗かれている。 囁き声が幾重にも重なり、洞窟の空気そのものがざわめいた。 二人は息を呑み、互いの存在を確かめるように目を合わせた。 囁きが途切れた刹那、岩壁のあちらこちらがじわりと濡れ、黒い液がにじみ出した。それは洞窟の奥全てを覆い尽くし、祠を中心に岩肌全てを覆い尽くす。 滴かと思ったそれは膨らみ、肉のように脈動し始める。 いや、肉のように、ではない。 それは肉だった。黒い液体は見る見るうちに赤黒く色を変え、それははっきりと肉塊に姿を変える。 ――ぐじゅ、ぐじゅ……。 甘ったるい匂いが一層強くなり、吐き気を誘う。 梓は思わず後ずさり、吉川が腕を引いて支えた。「下がってください!」 声を上げた瞬間、にじんだ塊から眼のようなものが開いた。 白濁した膜に包まれた無数の瞳。次々と瞬きを繰り返しながら、二人を見据える。 同時に裂け目が生まれ、口腔のような穴が開いた。 ぬめる舌を思わせる触手が這い出し、闇の中で蠢く。「……これが……にくゑ……」 吉川は震える声で言い、一歩後ずさる。 だが触手の一本が閃くように伸び、梓の腕を掴んだ
懐中電灯の光が闇を裂き、狭い山道を細く照らしていた。夜気は重く、虫の声すら遠い。 梓は隣を歩く吉川の様子に目をやった。 吉川は時折歩みを緩め、火傷を負った腕を押さえている。包帯の隙間から滲んだ布が汗に濡れ、光を受けて暗く沈んで見えた。「先生……痛むんですか?」「大丈夫です。大したことはありません」 吉川はそう言っているが、分厚く巻かれた包帯がいかにも痛々しい。梓が立ち止まり、光を彼の腕に向ける。吉川は小さく首を振った。「でも――巻き直した方が」「いえ、湿潤療法なので、このままで大丈夫です」 梓は布を取り出そうとしたが、吉川がやんわりと制した。「無理をするのは君の方でしょう。顔色が優れません」 梓は言葉を詰まらせた。 脳裏に浮かぶのは、母の日記の最後の一文。 ――『二度と戻らない』。「……母は、どうしてあんなことを書いたんでしょう」「強い言葉ですね。固い決意を感じます。きっと本当にこの村には戻らない、戻ることが出来ない理由があったんでしょう」 静かな声に、梓はかすかに肩を落とした。 彼の言葉は慰めではない。けれど確かに、支えになる理屈だった。「先生は……怖くないんですか」「怖いですよ。ですが、恐怖を記録に残せば、それは無意味なものではなくなります。――君も忘れなければいい」 梓は小さく頷き、懐中電灯を持ち直した。 その時、道が二つに分かれた。 左は岩肌の裂け目へ続き、低い水音が響いている。洞窟だ。 右は藪を抜けた先に、ぽっかりと広がる窪地。そこに石組みの井戸が見えた。木の蓋は錆びた鎖で留められ、隙間からは冷気とともに鉄臭い匂いが漂ってくる。「……井戸?」 吉川は灯りを向け、眉を寄せた。「古い造りですね。記録に残しておきたいが――」 梓は思わず首を振った。背筋をなぞる冷気に、ここではないと直感する。「先生……あっちは、だめです。清音に案内してもらった祠は洞窟の中にありました」 言い切る声は震えていたが、必死だった。 吉川は短く考え、やがて頷いた。「分かりました。なら、まずは祠を確かめましょう」 二人は井戸から視線を外し、岩肌の裂け目へと歩みを進める。 背後で、井戸の鎖が風に揺れて鳴った。低い水音が重なり、闇はさらに深まっていく。◆ 洞窟の奥は湿り気が濃く、足音に重なるように水滴の音が響いていた。灯り
川沿いの小道に差しかかったときだった。 闇の向こうに、小さな灯りが揺れている。 懐中電灯の光が、こちらに向かってくる。 反射的に息を潜める。 村人か? それとも――。「……吉川先生?」 呼びかける声。 振り向いた光の中に浮かび上がったのは、少女の影だった。「矢野さん……?」 灯りに照らされたのは梓だった。 肩に鞄を下げ、真剣な眼差しでこちらを見つめている。 その手には古びた文庫本と、手帳らしきものを握りしめていた。 驚きが胸を突く。 こんな時間に、なぜ。「どうして、こんなところに?」 「先生こそ?」 梓が不審げな目で吉川を見つめた。 夜の川風が、二人の間をすり抜けていった。 吉川は光を少し下げ、警戒を隠さず口を開いた。「矢野さん……どうしてこんな時間に外へ? 夜道は危ない、それにこの先には……」 「先生こそ! こんな時間に……」 梓の声には疑念が混じっていた。互いに探り合うように視線を交わす。沈黙が流れる。疑念と不安が、灯りの狭い円の中で交錯する。「……先生は何かを探してるんですか?」 「君は一体何を――」 同時に問い返し、気まずい沈黙が重なった。 時間――そう、もし時間が関係しているのならば、彼女はこの村に来たという意味では佐藤家の人々に次いで短い時間だ。 もしかしたら、彼女なら。 吉川は探るように梓に問いかけた。「……林田美穂さん、森川健太くん」 「――ッ!」 梓の反応は劇的だった。 両手を胸の前で組み、震えながら大きく頷く。「矢野さんはクラスメイトでしたね。一緒に森川君の検査に付き合ったこともありましたよね?」 「はいっ! 先生っ! はい、クラスメイトです。良くしてくれたんですっ! でも、でも皆……誰も……」 梓の全身を鎧っていた緊張が溶けてゆく。 大きく息を吐いた梓は、言葉を続けた。「それじゃ、先生も――二人のことを?」 「ええ、覚えています。思い出せたのは、多分偶然ですが」 彼は腕に巻いた包帯を握りしめ、低く答える。「忘れていました。しかしカルテに名が残っていた。確かに、昨日まで診ていた子供たち」 梓の目が潤む。「……やっぱりっ! みんな最初からいなかったって言うのに……」 吉川は深く頷いた。「記憶は奪
生ぬるい夏の夜風が、吉川の頬をなでる。 ――ああ、あの時もこんな風が吹いていた、と高校時代の夏を思い出しながら道を進んでゆく。 あの時は罪のない冒険だった。 しかし、今は違う。人の命が既に失われている。この村に秘密があるというなら、私はそれを解き明かし、これ以上の惨劇を防がなくてはならない。 静まりかえった夜の道を歩く。 村の夜は早く、既にあたりを歩いている人間は誰も居ない。 だが、念には念をいれ、更に夜が深くなる時間を吉川は待った。 静まりかえった夜には、ただ夏虫の鳴き声が響くばかり。 欠けた月に照らされた、未舗装の道を吉川は黙って進んでいった。 村役場は診療所からしばらく歩いた先にある、石造りの二階建てだった。 昼間は村人たちの出入りで賑わう場所も、夜は不気味なほどに静まり返っている。 広場に面した正面玄関は影に沈み、窓からの灯りは一つもない。 ただ風見鶏だけが月明かりを受け、無言のまま夜空に爪を立てていた。 吉川は懐中電灯を点け、深く息を吐いた。 ここから先は、罪だ。 だが――真実を掴まなければ、すべてはまた“なかったこと”にされる。 冷たい金属音が夜に溶けた。 意外なことに鍵はかかっていない。この村では盗人など気にすることはないということか。 確かに、村人全てが顔見知りのこの村だ。役人もまた村の出身者で、よそ者はいない。そういう意味ではここは都会の何倍も治安はいい。 かくいう自分も診療所には鍵などかけていなかったことを思い出し、吉川は苦笑する。 ノブを回し、扉を押し開けると、湿った空気が胸を打った。 中は真っ暗で、長年の埃と紙の匂いが充満している。 懐中電灯の細い光が、帳簿棚の列をひとつずつ照らし出す。 吉川は呼吸を整え、棚に指を滑らせた。 古びた戸籍簿、診療台帳、村の収支記録。 いずれも厚い和紙に墨で記され、端は茶色く脆くなっている。 ページをめくるごとに、そこには不自然な空白があった。 削られた名前。何行にもわたって墨で塗り潰された部分。 その跡はあまりに生々しく、「消された誰か」の存在を雄弁に物語っていた。「……やはり、ここでも……」 思わず囁きが漏れた。 公文書ですら書き換えられている。記憶が書き換えられても記録は残る、とは言い切れないということか。 だが、これでは理由がわからない。
夜更け、家の中は静かだった。陽一は宿題を終えるとすぐに布団に潜り込み、子供らしい寝息を立てている。食事の片付けも終わり、部屋には外から聞こえてくる気の早い虫の音だけが響いていた。 沙織も衣を脱ぎ、布団に横になった。今日はいろいろありすぎた――そう思って目を閉じたその時、隣から熱が迫ってきた。「……沙織」 俊夫の声は低く掠れていた。顔を向けると、目がぎらぎらと光を帯びている。比喩ではなく、夜の獣のように光って見えた。昼間はあれほど穏やかだったのに、今は渇いた何かに突き動かされているようだった。「あなた?」 腕が伸び、沙織の身体を抱きすくめる。布団の中に閉じ込められ、逃げ場はなかった
夜明け前の薄闇。 沙織は居間の片隅に腰を下ろし、布団に沈んでいる俊夫を見つめていた。まだ寝息は荒く、布団の上には夜の熱がこもっている。 昨夜は遅くまで宴が続き、村長の家から戻ったのは月が真上を過ぎたあとだった。これでは朝は寝過ごすに違いないと覚悟していたのに――。「あら……?」 外から人の気配がした。まだ夜も明けきらないというのに、ざわめきが広がっている。 鍬が土を打つ金属音、畝を返す鈍い響き。そこに笑い声まで混じっていた。 沙織は立ち上がり、窓をわずかに開ける。白い川霧が漂うなか、人影が列をなし、闇に溶けるように畑へと歩んでいくのが見えた。 思わず襟を合わせる。昨夜あれほど
村長の宴の夜。 あゆみは清音の家の塀の影に身を潜めていた。 今夜なら清音が動くかもしれない。男衆が村長宅に集まり、女たちも家に引っ込んでいる。清音にとって自由になれる貴重な夜。 そんな予感は的中した。 屋敷の門がそっと開き、清音が姿を現す。月光に照らされたその横顔に、あゆみの胸は高鳴った。美しい。今夜も見ていられる。 だが次の瞬間、あゆみの表情が凍りついた。 清音が向かった先――梓の家。 (また……また梓なん?) 胸の奥で黒い感情がとぐろを巻く。 清音が戸を叩き、梓が現れる。二人が言葉を交わし、そして――手を取り合って歩き出した。 嫉妬が体中を焼く。 なぜ梓なのか。な
――私は、生まれた時から村に縛られていた。 清音は思う。 家の名も、行く道も、幼いころから掟の中に敷かれていて、自分で選んだことなどひとつもない。笑い方も、言葉の数も、すべて決められていた。 母の記憶はない。顔も声も、空白のままだ。 その欠け目を埋めるように、村の女たちの仕草を真似てみた。けれど温もりは戻らず、胸の渇きだけが深くなっていった。 ――だから梓に出会ったとき、世界が揺れた。 心の奥まで読み取れるはずのこの村で、梓だけは掟の網にかからない。母の影のような懐かしさと、少女としての憧れが、ひとりの人間に重なって見えてしまう。 決められた道から外れるのは、禁忌だとわかって